見る限り誰もいない…と、なれば
はぁ、と息を吐き手をついた扉の縁は塗装も白くまだ新しい。
今年の春から解放された新しい講堂は西に向けて扇型に広がり、丁度外周の部分に開く高窓から夕陽の赤が流れ込んで、がらんとした空間が少し寂しかった。
「先輩」
走り回っていたせいでほんの少し呼吸が上がっている。溜息ひとつの後に落とした呼びかけに、講堂の奥、誰もいない座席の端に突っ伏す人影はぴくりとも反応しない。カタン、と最後列の椅子を鳴らし奥へ奥へと歩み寄ると、寝息さえ拾えそうな静けさの中で、ひっそりとうつ伏せる様子に笑みが零れた。腰を折って屈みこみ、腕に埋もれる三上の横顔を覗く。染めもしない真っ黒な髪が頬や目元に掛かって、見つめている自分がくすぐったい気持になって思わず指を伸ばした。さらさらと思った以上に細いそれをそろりとかき上げてやると、笑ってしまいそうな程素直な寝顔が少しだけ顰められる。
「せんぱい…起きないと置いて行かれちゃうよ…」
内容と反して起こす気もなさそうな小声でつぶやき、隣に腰を下ろした。覗き込む角度のままだったから、ぐいと近づいてしまった顔に一瞬焦る。思わずあたりを見回してしまった。
何慌ててんの俺。
一人苦笑し、何より一番つっこみをくれそうな三上は相変わらず眠り込んだままだ。ほっと息をついて顎を上げると、少し距離をとって机に肘をつく。呼びに来たのも忘れた風に寝顔を眺めていれば、夕焼けに切ない胸の中でことことと心臓が鳴っていた。
「ねぇ…三上先輩…?」
吐息交じりに呼ぶと、まるで応える様に三上が唸る。起きたのかとまた少し顔を寄せると、ほんの少し香った、甘いような、波が引くように安らぐような匂いに思わず目を伏せた。
(なんか…)
泣きそうなくらい落ち着く、そう思った自分に笑う。何を感傷的になってるんだと一人俯いたら、襲う恥ずかしさに頬が熱くなるのがわかった。
「何やってんだ俺。…呼びにきた、そう呼びに来たんだよ俺は!
せんぱい!三上先輩起きて!」
そのままだったら抱きつきかねない自分を奮い立たせ、がばと立ち上がり肩を揺する。みるみるうちに眉を顰めた三上の目がうっすらと開かれたのを見て、なぜか安堵した。やっと起きた!と笑うと、掛けていた手を無造作に掴まれて驚く。
「な、何?」
「…なんつー声すんの、お前…」
「は、い…?」
眠そうに眼を瞬きのそりと立ち上がると、懐に潜り込むように三上が顔を寄せる。
鼻先に香ったその存在の香りに再びどきりとすると、下からすくうように口付けられて硬直した。
「う、え…え?」
抱きつかれて鼻先が頬や耳を撫でる。触れるその肌が自分に負けず熱いのを感じて、いよいようるさい心臓の音を吐き出す様に溜息をつく。
先輩、と口を衝いて出た呼びかけに、応える声もまた震えていて、もう一度泣きたいような気持ちになった。
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大学生設定藤三の出来上がる瞬間、みたいな妄想で…。
いつもお題と若干ずれているような気がします…。
20080614 板村あみの