不安な気持ちをはんぶんこ
「先輩もう寝た?」
「………」
「起きてる?」
「…………」
「せんぱーい…」
独り言のように呟く藤代の口元を、三上は寝返りの勢いのままがばと塞いだ。うお!と小さく叫んだ声はもごもごと情けなくくぐもって、腕を外そうと手頸に絡む藤代の手を汚いものでも払うように振り払うと、三上は改めて藤代に背を向け、蒲団を引き上げた。
「寝てるから黙れ」
「起きてんじゃん…」
「寝てるよ、寝てる。おやすみー」
「せんぱいー、昼間寝ちゃったから全然眠くないんだけど」
「知るか」
「ねぇ眠れるまでしりとりしようか」
「あーお前はほんとに最高鬱陶しいな!」
俺は明日一限からあんの!授業が!
なおいっそう背を丸めて、藤代から身体を背けるようにうずくまる三上の背中に抱きつく。肩越しに覆いかぶさる腕も無視してきつく目を閉じる三上がため息をつくので、藤代はあきらめて口を噤んだ。
「………」
「…………」
「……おい…」
「ん?」
「邪魔だよ…腕どけろ」
「……せめてこれくらい許してもらえませんかね…」
そう言いつつも本気で機嫌を損ねられるのも嫌だったので、藤代は大人しく張り付いた背中から離れて天井を見上げる。
(せっかく泊まってるんだから、もうちょっと相手してくれてもいいじゃん…)
と思っている胸の内を察してか、こちら側に向き直った三上がそっと腕を回してくる。
という流れを期待してはみたものの、そのうちあっさりと聞こえてきた寝息に、藤代はひとり寂しく舌打ちをした。
「今度先輩が甘えてきても、絶対相手してやんない」
拗ねて眼を閉じるも、そのうちすぐに睡魔がやってきた。
いつの間にか眠っていた藤代が、わずかな光の気配と物音にうっすらと目を覚ますと、隣で眠っていたはずの三上がいない。空になった隣のシーツに手を這わせると、少しだけぬくもりが残っている。
(朝…?)
半分眠ったままの思考で寝返りをうち、ぼんやりしたまま壁にかかる時計を見上げると、夜明けにはまだ程遠い午前三時。
(先輩…起きてるのかな…?)
どんだけ早起きだよ、そう笑いかけて、かち、と静かな室内に響くライターの音にどきりと胸が鳴った。
時折こうして泊まりに来る藤代が、朝三上よりも先に目を覚ますと、灰皿に吸い殻を見つけることがある。寝る前に空にされてシンクへと片付けられる筈のそれが、夜中に使われた形跡を残しているのを見る度に不安になった。一緒に床に着くのに、自分が寝ている間に煙草を吸っている三上を想像して、眠れないんだろうか、もしそうなら、何で眠れないんだろう、そう心配になるのだ。
「せんぱい……」
身体を起こして、どうしたのと聞けばいい。そう思うのに。
『昨日夜中目ぇ覚めてさ』
そんな風に言ってきた事のない三上が何を考えているのか、お前寝相悪いんだよ!とか、いつもみたいに言ってくれればいいのに。
目を覚ました事を言わないって事は、知られたくないって事だよな…?
起きて、たった一言眠れないの、と聞けばいいだけなのに。聴いた後に返ってくる言葉や、目が覚めてしまう不安の原因が何かを聞くのが怖くて、逡巡している間に醒めきらない瞼は重く光を遮り、起きなきゃ、起きて聞かなきゃと焦る気持ちのまま、藤代は再び泥に沈むように眠りに落ちていった。
「俺って頼りないかな」
学食で席を共にした女友達におもむろに切り出すと、残念ながらあまり美味しくない(けど他のメニューの中では幾分ましな)スパゲティ・ミートソースにフォークを突き刺した相手は、まじまじと藤代を見返した。
「なにいきなり」
「いや…どうよ?」
えぇー?
前後の説明もせずの唐突な藤代の問いに、盛大に眉を歪めた彼女、佐々木有香は、片手で器用に操るフォークの動きを緩めて首を傾げた。
「まーあたしは別に藤代頼ろうと思ったこと無いからなぁ」
わかんない。
あっさり答えつつも、引き続き悩んでくれていそうな相手の表情を見て藤代はうなだれる。説明いるよね、やっぱり。そう思って一度持ち上げたラーメンの麺をスープに沈め、箸を置くと改めて顔を上げた。
「あのさ」
「んー」
「彼女がさ、なんか悩んでるんじゃないかと思って」
「うん」
「でも、そんなそぶりを見せないからさ」
「うん?ん?」
「うん?なんで?」
「いや、見せないのになんで悩んでるって思うのよ」
「いやそれはさ、まぁ。なんとなく?」
「んーわかんないけどまぁいいや。で?」
「あー、だから、見せないって事は俺に言わないって事で」
「んー」
「相談されないって事は、なぁ?」
「頼りないんじゃないかって?」
そうそうそう。三度続けて頷くと、佐々木は思案を巡らすように目線を斜め上に向けた。完全に止まった右手の先で、皿の端から外れそうなフォークがソースを零しそうになっている。こぼれる、と注意を促すと、あ、ごめん、と意識を目の前に戻した佐々木は藤代を見て笑った。
「まー詳しく聞かないとわかんないけどさぁ。別に頼りないから言わないんじゃなくて、心配かけたくないんじゃないの?」
「…うーん」
「心配してる?」
「そりゃあ…」
するだろ。真面目に返すと、目の前の顔は意味深な笑みを浮かべている。何、と眉をひそめたら、より一層深く笑みを刻んだ口元がおどけたように開かれた。
「悩んでるそぶりも見せないのに、藤代はそれを察したわけだ」
「いや、ただちょっと心配なだけで…」
それからちょっとだけ不安なだけで。
何か思い悩むところがあるんじゃないだろうか。そう考えた時に一番最初に思い浮かぶのは、自分たち二人の関係についてだった。便宜上「彼女」と表現しては見たが、そもそもそんな便宜を図らなくてはいけないのは、決して世間様に胸を張って言える関係では無いからだ。常日頃後ろめたく思っているわけではないが、いくら能天気だと言われる藤代もそれについては心底忘れてしまえる事ではない。
佐々木あたりに話せば、きもーい!と笑い話にされる程度で済むだろうが、多分それで済まない場合の方が多いのだろう。今はまだ先の話だと高を括っていても、いつかは現実に突き当たる日がきっと来る。
もし先輩が眠れない理由が俺と同じ不安なら。
「話してくれたらいいのに…」
唇を引き結んで俯く藤代の様子に、佐々木は声を上げて笑った。
「ちょ、何笑ってんの…!」
「あはは!いや、ごめ、た、頼りなくなんかないよ藤代は!」
「ぜんっぜん参考なんねーよ!」
馬鹿にしてんのか!軽く睨みつけると、笑顔満面の口元をようやく結んだ佐々木が一つ大きく息を吐いてから頷いた。
「つられて悩んじゃうんだもんなぁ。頼れる頼れないより、いいよ」
「は?なにが?」
「いや、いいと思う。とってもいいとおもう」
「もーいいよ…」
どーもありがとーございましたぁ。おざなりに礼を言って再び箸を取った藤代に、佐々木は悪びれず身を乗り出した。
「今度紹介してよその彼女」
「ぜっってーやだ」
「お前彼女いんの?」
背後から聞こえた「彼女」の声に、藤代はびくりと椅子を鳴らして振り向き見上げる。トレーを片手に隣の椅子を引いた三上は、懐いた声で呼ばわる佐々木に笑顔を返してから、藤代に向けて意味深に笑った。
「み、三上先輩…」
「あれ、三上さんも知らないんですか?」
藤代悩んでるらしいですよー。
定食のフライに箸をつけながら、ふうん、と藤代を見た三上は、面白そうに先を促した。何を悩んでるって?
いい加減冷めて伸びきってしまった麺に箸を付ける気になれず、藤代はプラスチックのグラスを手に取る。一口水を口に含んで、もうこの際言ってしまおうと隣の三上を真っ直ぐに見詰めた。
二人きりだったらきっと、はぐらかしたり、うまく言いくるめられてしまうけど。人目の有る今この場で、一般論にかぶせてイニシャルトークの一つもすれば、本音を零してくれるかもしれない。
「俺って頼りないですかね?」
佐々木に相談した一言目をそのままぶつけると、ざくり、とフライに箸の突き刺さる音がする。ほんの一瞬だけ眼を見開いた三上は、それでもすぐに口元を歪めて笑った。
「しらね。俺はお前頼ろうと思ったことねぇからな」
「あはは、あたしと同じこと言ってる」
「そりゃそうでしょうけど…。俺の、彼女は」
一言一言を区切るように。じっと見つめながら話す藤代から、三上はふい、と視線を逸らす。食事に集中しているように見せて、意識がしっかりと自分に向いているのに力付けられ、藤代は言葉を継いだ。
「夜、眠れてないみたいなんです。いつもなのか、俺が一緒のときだけなのかは知らないけど。でもそれを隠してるんです。…いや、多分、なんですけど…」
「…………」
「何でも話してくれなきゃいやだとか、そう言うんじゃないんです。ただ…」
俺がいるのに、安心させてあげられてないのかと思うと
「悔しくて…」
ぽつりと呟いてゆっくりと瞬きをする。言葉のまま悔しげな表情を浮かべる藤代に、三上は一瞬呆けたような顔をした。つられてきょとんとする藤代の目の前で、口元を不自然に引き結んだ三上の顔がみるみる赤くなる。どきりと心臓が大きく跳ねて、思わずじっと見つめた。正面でフォーク片手にパスタと格闘する佐々木から見えないようにぐい、と顔を俯けると、三上ははぁ、と大きな溜息をついた。
「…先輩?」
「お前って……」
何を言われるのか、とくとくと高鳴る胸を無意識に押さえながら何?と聞き返すと、返事の代わりにくつくつと笑い声が返ってくる。ええ!?今の流れで何で笑うの!?不服気に眉を寄せる藤代が三上の肩を掴むと、無造作なくせにどこか優しい仕草でその手を払った三上が顔を上げた。笑いすぎて涙が出ました、とでもいいそうに目元を指先で拭ったら、まだほんのりと赤い顔で藤代を見る。
「お前ってほんっ、と可愛いな!」
「は、はぁ!?」
「やっぱりそう思います?」
「あはは、腹いてぇ…!」
ねーでも彼女は幸せだと思うよー。あんたにそこまで大事に想われてさ。腹を抱えて笑う三上につられたように再び笑いだした佐々木が言う。ねぇ先輩?と同意を求められ、なんとも複雑な笑顔でうなずいた三上は、はたと思い出したように表情を改めた。
「あ、俺用事思い出したわ、行かなきゃ」
「え、全然手ぇ付けてないじゃないですか」
「佐々木食っといて」
「あたしそんな大食いじゃありません!」
「ちょ、ちょっと三上先輩」
「つーわけで、じゃあな二人とも」
一人取り残された様な藤代が席を立つ三上のシャツを引くと、じゃあな、と言ったその眼が藤代を見て何かを言った。じっと見ていなきゃ分からないくらい小さな仕草で、来い、と顎で促すので、藤代はこくりと喉を鳴らして手を離す。
「あ、俺も次の準備あるんだった」
「え、ちょっと藤代、これ片付けてってよ!」
食べきれないよ!と訴える佐々木に悪い、と手のひらを立て、自分のトレイを片手に立ち上がる。カウンターへ食器を下げに行く途中見つけた友人に、不満げに見送る佐々木の席を指し助けを求めてから、すでにフロアから姿を消した三上を追って食堂を出た。
(来い、って…)
どこだよー…。
階段を下り左右を見渡す。逸る心を落ち着かせようと溜息をついたら、脇から伸びた手に腕を引かれてよろめいた。
「うわ…!」
「………」
無言のまま足早に進む三上に引かれ、階段下にあるトイレへと向かう。教室のある棟と違って使用頻度の低いその個室に連れ込まれ、後ろ手にドアを締めた途端に抱きつかれた。
「…っ…せんぱい」
「…馬鹿……」
首に巻きつく腕や、左頬に頬ずりをする顔が熱い。少し走ったから、だけじゃない、脈打つ鼓動に身体が震えそうな気がする。
「…先輩、顔、上げて…?」
「……」
黙って首を振る三上の、強く絡みつく腕をじっくりと解いて、それでも背けたままの頬に手を添える。吐息が漏れて、ほんの僅か潤んだ瞳が伏せられるのも待たずに、藤代はその唇に口付けた。
「ん…っ」
「…は…先輩…」
「…う…ん」
ね、眠れないの、俺のせい…?
問いかけるくせに、言葉を紡ぐ為に離れる唇が惜しくて返事を待てない。柔らかで熱を持ったそれが素直に応えるのが胸に迫って、窮屈な個室の中、薄っぺらな壁に押し付ける様に口付けに熱中した。
「ん…ふじ…しろ…」
「…先輩…」
好きだよ、好きだよ。
言葉で伝える代わりに何度も何度もキスをしたら、同じだけ返ってくる熱に涙が溢れそうになった。間に挟まる空気さえも邪魔で、一瞬でも離れることがもどかしい。
ねぇ、すきなんだ。だから心配ごとも、かなしい事も、全部はんぶん分けてくれなきゃいやなんだよ。
頬ずりをして、強く抱き締める。鼻先を摺りあわせて顔じゅうにキスをしたら、小さく笑った三上が呟いた。
「藤代…可愛い…」
「…なにそれ……」
「好きだよ…」
頬に短く口付けられ、首筋に顔をうずめる三上の髪に指を絡ませて撫でる。背中にまわされた手があやす様にリズムを取るので、可愛いなんてセリフ、嬉しくないよ、と拗ねることも出来ず藤代はため息をついた。
「先輩の方がかわいいよ…」
耳が真っ赤だよ。呟いてその耳元に口付けると、一瞬だけ緊張した身体が、漏れた笑い声に揺れた。
「なぁ藤代…」
「…うん?」
「俺、早退しようかと思うんだけど」
お前付き合う?
額を突き合わせて悪戯っぽく問いかける三上の言葉に、藤代が頷く。
「気が合いますね先輩。俺もちょうど早退するところなんです」
ちょっと熱っぽくて。
そう言って見返したらほころぶように笑うので、藤代は射抜かれた様に恋に落ちてしまった。三上相手に、もう何度目かもわからない程。
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なんでかトイレで云々、という話を、夏コミで蜂矢さんと話した気がするので。
トイレに連れ込んでみました…て、てれるー!
20080827 板村あみの