寂しさの影
この家には、あの人の泣き声が響いている。
人の声にも似た、ふとすれば聞き逃すような弦の響きは、どこか空疎で乾いている。家人は皆その音に慣れ、ふと気づいても呆れた失笑を漏らすばかりだ。時折耳のいい客人が美しいと褒めるその音色が、だが誠二には悲鳴のように聞こえて仕方がない。
急き立てるような寂しさを感じるその音が常となった今では、それが途切れる瞬間こそ違和感があった。今もまた気怠い異国の旋律が唐突に止み、誠二は筆を走らせる手を止めそっと視線をあげた。
「…では、その金額で進めてよろしゅうございますか?
ええ、わかりました。誠にありがとうございます。
誠二君、書類一式松代屋さんにお渡しして。」
手代の男は満面の笑みで、腹の前で握り合わせていた両手を解く。それを畳について深々と頭を下げ、一拍の沈黙の後顔をあげた。まとまった商談の余韻を楽しむように客に雑談を持ちかけつつ、ちらと横に座る誠二の手元に視線を走らせ、促すように頷く。誠二は頷き返し、たった今合意された取引単価と総量を書面に書き起こして筆を置いた。
店先、男の半歩後ろで深々と頭を下げ、客を見送る。人力の真っ黒な幌が角を曲がって見えなくなると、男は振り返りねぎらいの言葉を誠二にかけた。
「誠二君、お疲れ様でした。大分慣れてきた様だし、旦那様のお許しが出れば次はお一人で対応出来そうですね。」
「ありがとう吉瀬さん、でもまだまだ教えてもらわなきゃ」
笑み返し中へ戻ろうとする背後で吉瀬が呟く。くらべて亮君ははなぁ…、何とかその気になってくれればいいんだけど…。吐息交じりのそれに、様子見てくるよと短く返して、誠二はそそくさと二階へ向かった。
薄暗く急な階段を上り、時間が染み込んだ様に暗く光る廊下を踏みしめ奥へと急ぐ。廊下一面を照らす窓はところどころが開け放たれており、漂う空気には春の温もりが感じられる。底冷えの冬はつい先ほど過ぎ去り、窓辺を撫でる桜の枝には、小さな蕾が続々と膨らみだしている。店先の賑やかさが遠のき、まだ微かな花の気配さえ感じられそうな程に静まり返る奥の間の前で、誠二は足を止めた。
誠二には一年に少し足らないだけ年上の亮という兄がいる。この商家の直系の母と、婿養子となった父との間に生まれた歴とした長男で、つまり跡取り息子だ。だから本来であれば、誠二の様に家業を手伝い、跡を継ぐ為に学ぶのはこの兄の仕事である。
だが手代が嘆息した通り、亮は家業に見向きもしなかった。裕福であった事と、先々後継ぎとしての仕事を期待され、専門学校へ向けた進学が許された為学業には取り組んでいたが、傍らでその手が握るのは算盤ではなく、チェロを奏でる弓であった。
対して次男である誠二は商いに向き合い、奉公として日々店先へ出、番頭を手伝い筆を執り、算盤を弾く。だがそれは自らの役割を全うする為であり、いずれは家を継ぐ兄を助ける為だ。
誠二は先代の番頭の息子であり、七年前にこの家に迎えられた、いわば養子である。十にも満たない幼い息子を残して亡くなった番頭への、これまでの働きに感謝する意味ももちろんあるだろうが、義父が第一に考えたのは、とても商人らしい資質は持ち合わせない長男の補佐の必要性だっただろう。誠二はそれを不満に思ったことはないし、与えられた恩義を返す当然の役割だと思った。
何より、幼い頃から共に遊びまわった亮が、より身近な兄弟となる事が純粋に嬉しかった。
「兄さん」
障子越しの呼びかけに応えは返らない。微かに紙の擦れる音がする。躊躇いがちに指をかけた引手を引くと、伏せた視線の先、椅子から延びる兄の足先が目に入った。
洋装の黒いスラックスの膝の上に、五線譜が一枚乗っている。ベストを脱ぎ、白いシャツだけになった胸が僅かに上下している。腕の先で長い指がゆったりと弧を描き、置いた肘掛けの丸く渦を巻く先端をそっと包んでいた。
足を踏み入れると部屋の端、机に一際存在感のある楽器が立てかけられている。一瞥し、誠二は兄がそれを抱くのを見ずに済んだ事に安堵する。
誠二はチェロが嫌いだった。
年も近く気安い幼馴染が兄となって間も無い頃。亮は、外国からの輸入品に手を広げ始めた父の、土産の中にあったこの楽器にすぐに夢中になった。まだ身体に合わぬ大きさのチェロを抱え、毎日のように弾いた。誠二は、せっかく兄弟となれたのに今までより減ってしまった時間に寂しさを感じ、それを奪ったチェロを嫌うようになった。
それでも、悔しく妬ましい気持ちをあからさまにぶつける程にはもう子供でもなく、微かなわだかまりは年を追うごとに滲むように大きくなり、今、誠二の胸を騒がせるのは、ただ幼い独占欲とはもう呼べない何かだった。
まるで耽溺し、深く愛撫するように愛しげにチェロを奏でる兄を、目にする事が厭だった。傍で見ればそのように腹立たしく目も背けたくなるくせに、ふと離れ旋律だけを耳にすると、今度はそれが兄自身の声の様に寂しく響き、いてもたってもいられなくなる。そうしてまた兄の傍に行けば、繊細な指が指板を這い回る様子を目の当たりにして、熱い氷に焼かれる様に不穏な情動が胸を焦がすのだった。
(亮…さん…)
眠る兄を起こさぬよう、そっと傍らに立つ。瞼を下ろした表情の中で、顎先がほんの少し仰向いている。そのせいで薄く開いた唇が目に入り、誠二は顔を背け喘ぐように吐息した。
「兄さん、寝てるの…?」
確認の様に囁くと、かさ、とわずかに滑り落ちる五線譜が鳴る。魅かれる様に視線が、亮の青白い瞼に戻り、白い肌を辿ってしまう。鳩尾から痺れるような熱が這い上り、胸を高鳴らせた。二度目の呼びかけにも応えがなく、破れそうに薄い瞼が微動だにしないのを見て、誠二は吸い寄せられるように亮の眦に唇で触れた。
「ん…」
顰められる眉を間近に、息をつめて見守る。肩に頬を寄せ顔を背ける亮の、鼻先を追うようにそろそろと跪き、誠二は肘掛けの兄の手に自らのそれを重ねた。冷たく乾いた指先を溶かしたくて、ぐ、と力を込める。
ふと睫毛の先が震え、薄く目を開いた亮が囁く。
「誠二…?」
間近にいなければ聞き取れないような掠れた囁きが、確かに自分の名を呼ぶのを聞いて、誠二は堪らず、掬う様に兄の唇に口付けた。
「…っ…ん…!」
慌てて体を起こそうとする亮の両手を掴んだまま、誠二は立ち上がる。上から押さえつけるような口付けが、身動ぎする拍子により深く絡み合い、亮は肩を震わせて身を固くした。
唇の裏の滑らかな皮膚を舌先で撫でると、顎を震わせて亮が目を伏せる。口腔の熱さと、手の中で震え脱力していく冷たい指の落差を感じた途端、誠二は我に返り、慌てて身体を起こし腕を離した。
手の甲を口元に充て、呆然と立ち尽くす誠二を見ないまま、亮ははぁ、と吐息し俯いた。胸元に充てた右手を抱えるように背を丸め、顔を背ける。肘掛けを掴んだままのその左手指に、関節が白く浮き上がるのを見て、誠二は途方に暮れ後退った。ごめん、謝罪を形作る口元には音が伴わず、胸を叩く鼓動を押し潰すように飲み込んで、兄に背を向け部屋を飛び出した。
どくどくと跳ねる心臓が身体を震わせる。遠のいた気配に一際大きな溜息をついて、亮は両手で顔を覆ってうずくまった。
「……冗談だろ…」
くぐもった呟きは手のひらから零れても拾うものさえない。膝から落ちた五線譜が床を滑り、チェロのエンドピンに当たってこつんと小さな響きを残した。
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今日は二月三日で兄さんの日らしいので、唐突な義兄弟パラレルでお送りしました。
しかも明治時代。(わからぬ) すみません、全然下調べをせずに書いています。説明がないと時代も背景もわかりません…ね…。
えっと、一応大店の一人息子で家を継ぎたくない三上と、養子の弟藤代、という設定でした。16歳と17歳くらい。
三上の学友に中西(華族)とか渋沢(士族)とかがいたら、ときめきます。
あとイメージは大和和紀さんのヨコハマ物語に大部分を頼っています。だいすき!
20120203 小絲