夕暮れ
月の横でまばたきする、あの光。
「なー竹巳、なんかすげぇ光ってんですけど」
「あ?」
「ほら」
夕暮れ、親友との帰り道。
信号待ちにふと会話が途切れて、沈黙の中立ち止まる。
前を横切る車を、なんとなく目で追う。…追った、その先に、いつもと違う空を見付けた。
「あぁ、アレだろ、火星」
「いっつもあんなとこにあるっけ?」
「さぁ。なんか今日は月と大接近の日らしいよ」
「ふーん」
夕方とはいえ、西の空は星の光を消してしまうほどには明るい。
淡い朱がなめらかにまだら模様を作る彼方、クリーム色の丸く大きな月の脇に、真っ赤な星が文字通り瞬いて見える。
「…超光ってねぇ?」
「んー、凄いね。あれ、…満月かな?でかいね」
「ちょっと欠けてるよ。…十五夜って九月だっけ?十月?」
「九月だろ?今年は、…じゃぁ明日明後日じゃないの」
「凄いね……」
「奇麗……」
「うん……」
誰かに伝えないと。
まるで使命感の様に思い付いて、藤代はそっとポケットに手を差し込む。
ストラップに指を絡めて、中にある携帯をそのまま握り締めた。
こんな奇麗な空、見なきゃ絶対損だ。
一度青になった信号が、また点滅し出す。
渡る様子も無く西の空を見上げて、再び途切れた会話。
二人とも相手の存在など忘れた様に、放心した様に立ち尽くした。
……先輩見てんのかな。
見てなかったらもったいないよな。
てか普通に空も奇麗だし。
月もすげぇでかいし。
……。
メールしようかな。
いや、でも。
……もうちっと用件らしい用件が無いと、アレですかね。ウザがられたりして。
一言「空 見て」って言いたいだけなんだけど。
………。
…でもなんか。
………あなたと同じ空を見上げて、なんて、発想が乙女過ぎる気が。
…………。
あー…どうしよ。
早くしないと日が、暮れる…
鮮やかな朱が緩やかに流れ落ちて、迫る闇が徐々に露わになる。滲む濃い藍は、一瞬色彩の無い明暗の境目を徐々に地平に落としていく。
滑らかに珊瑚色から桃色へ。淡く象牙色から菫色へ。
そうして青く濡れていく空の中で、大きな月と、寄り添い瞬く星の輝きはいっそう増して。
逡巡する自分が決断するまで、奇麗なまま待ってくれれば良いのに、と、藤代は一心に夕暮れを見つめ続けた。
凍らせたいみたいに。縫いとめるみたいに。
写真の様に焼き付けるみたいに。
手の中で、携帯が唸りを上げて震えた。
握り締めていたそれを引っ張り出して、自分でもようやく引き剥がした視線を、手元へ落す。
一瞬合わない焦点でぼやける視界の中、群青のボディの端で点滅する着信ランプの色が示すのは、新着メール。
気付けば遠い月の周りだけでなく、自分のすぐ鼻先さえ随分暗い。誰そ彼の中で青白く発光するサブディスプレイを覗いて、藤代はどきりと硬直した。
『三上先輩』
「お、おお…!」
「何だよ…」
「……や、なんでも…」
あんまり熱心に考えていた相手の名前、嬉しい驚きに妙な唸り声を上げる。
笠井が気も無さそうに、それでも惰性で反応してやれば、藤代は緩む表情の前で手を振って、自然笑む口元を引き締めた。
もしや無意識のうちに変な電波でも出てたかな、なんて。
馬鹿馬鹿しい心配は、冗談にもならない。メール一つでどきどきしてしまうのをごまかす言い訳だ。
普段呼ぶそのままの呼称で送信元を示す携帯を、丁寧に開く。ショートカットから直でメールを開封する。
『月の斜め下に火星発見』
「……………」
改行さえない短い一文。
「見たか?」でも「見ろよ」でもなく、ただ自分が見たと言う事だけを伝えるその書き方に、なんとも先輩らしいと、藤代は文字相手に思わず頷いてしまった。
でも、ちゃんと同じ事を見てた。
ぜんぜん傍に居ないのに。
「すげぇ…!」
『見たよ!月もでかくて本気でキレイ。
つか空が全部きれいだった!』
遭遇した美しい空にだけでなく、計り兼ねていた距離の意外な近さに。
短く、そして素早く返信を返すと、再び空を見上げる。
日の名残は消え去り、ただ月だけが、太陽光を優しく淡い金色に変え、
いつもは居ない、寄りそう赤い瞬きと共に、地上にその光を落していた。
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私はテレビも見ず、新聞も読まないので、
この火星大接近がどれだけメジャーな天文学イベントなのか計り兼ねます。
ただ私は全く知らずにその当日を迎え、なんの予備知識もなく強烈に光る火星を発見し、
一人感動するところに友人からメールを貰い、意図せず同じ物事に心を動かされていた、と言う事にちょっと喜びを感じたので。
けっこうそのまんまネタにさせていただきました。
誰もが知ってる、見て当然の出来事なら、この話成立しませんね。あはん。
20030922 板村あみの