2cm
「…ふざけんなよ…」
呟いた声が響くのは、静まり返った談話室。
良く見れば細かい傷のついた白いテーブルに、一年前に使った教科書が広げられている。
それを器用に逆さまに眺めていた三上は、上げた視線が捉えた後輩の眠りこける姿に舌打ちをした。持っていたボールペンを教科書にトン、と突き立てる。
食堂から流れ込んで、テレビをネタに騒いでいた所に藤代が泣きついてきたのは一時間ほど前だ。
数学の教科書を掲げて喚くのを三年レギュラーで暫く虐めてから、指名と得意分野を考え合わせた結果、三上が面倒を引き受ける事になったのだった。
めんどくせぇ冗談じゃねぇ馬鹿が伝染る!などと不満を述べる三上を置いて、「三上君は頭良いから平気よね〜」と妙なシナを造った中西も、「俺も数学やべぇ…」と思い出した様に青くなる近藤も自室に引っ込んだ。暫く一緒になって教えて(というより遊んで)いたほかの面々もパラパラと姿を消し、気付けば談話室には二人を残して誰一人居ない。
いつのまにかの静寂に文句も引っ込んで、他人事とはいえ集中し出したところだった。
捻った応用の問題集じゃない、余式の載った教科書の基礎練習題がなんで解らないんだと呆れる。それでも元々好きな数学の問題、たった一年前とは言え懐かしい内容を反芻しながら、後輩の「出来ました」の声を待っていたというのに。
はぁー、と大袈裟な溜息を吐いてみても藤代はなんの反応も返さない。
熟睡、だ。
「おいボケ。アホ。バカ」
寝てるのを良い事に好き放題言ってみる。赤のボールペンをペコペコと揺らして、眠り込む後輩の乾かさないままの髪の毛にぶつけながら。
本人が起きていたら、普段から好き放題じゃないですか!と言いそうな他愛も無い言葉を投げつけていると、べたりとノートに右頬を貼りつけたままの顔が僅かに歪んだ。起きる気配は無いが、けなす暴言は無防備な鼓膜を震わせて、夢にでも影響を及ぼしたのかもしれない。
思わず頬を緩めてしまった。
普段周りが見る標準装備のひねた笑みではない、穏やかな微笑。そんな表情をしている自分に一瞬後に気付いて、それを見る誰もいないのに慌てて顔を引き締める。
「バーカ」
やつあたりにとどめとばかりに呟いて、いつのまにか覗き込む様に近づいていた顔を上げた。
ついでに体も起こして、グっと伸びをしながら背をしならせると、ノートや教科書、至近をじっくりと見つめていた目が蛍光灯の光に眩んで、天井の模様をぼんやりと映した。眉間を寄せて焦点を調節しながらゆっくりと力を抜くと、上向いたまま背凭れに寄りかかる。
そういえばこんな風に呑気に寮での夜を過ごすのは久々かもしれない。
試験前の部活停止期間とはいえ、担任の苦笑交じりの注意を聞きながらの自主練習は欠かさないが、それでも練習、練習の普段よりはやはり気持ちに余裕があった。
(まぁこいつは今の方が追われてんだろうけど…)
視線を下ろして、変わらず眠り込む藤代を見やる。授業内の勉強で大半を理解、習得してしまう三上とは違って、試験前に慌てて助けを求めてくる辺り、普段の授業態度が知れるというものだ。奇麗に取ってあるように見えるノートだって笠井に写させてもらったに違いない。
手元のノートにボールペンを放ると、頬杖をついた。
寮内唯一を誇る設備であるテレビも、灰色の画面で無愛想に黙り込む。
意識すればするほど静かな白い部屋。壁に掛かった味気ないデザインの時計の、秒針が不意にその自己主張を始めた。
「ふじしろー」
起こす気もない小声で名を呼ぶ。勿論、藤代は目を覚まさない。
テーブルに投げ出した腕の先で、指がピクリと動いた。
眠っている姿が珍しい訳でもなかったが、こんな風にゆっくりそれを眺めるのは初めてだった。
乾ききらないその髪をじっと見つめ、そう言えばさっきくしゃみしてたな、と思い出す。きたねぇ寄るなと蹴りをくれてやったが、風邪でもひかれたらまた鬱陶しいことになりそうだ。……見舞ってくれだのなんだのと。
(でもこいつバカだし平気か…)
酷く落ち着いた気分で、脈絡も取りとめも無く考えながら、呑気な寝顔を眺めた。
瞼が少し重い。
傍で眠る人間の呼吸と秒針の、それぞれ一定間隔に響く音が催眠効果になって睡魔を呼んで来たようだ。
視線は意思を離れて、普段注視する事の無い後輩の顔のパーツをぼんやりと見つめた。
閉じられた瞼の縁に奇麗に並ぶ睫。下瞼の僅かな膨らみの脇に泣きぼくろが有る。
湿った髪の毛の隙間に見える耳は僅かに赤みがかっていて、触れたら暖かそうだ。眠っているせいで体温が高くなっているのかもしれない。
しかしそう思った端に目に付いた剥き出しの首筋が妙に寒そうで、思わず腕を上げた。
顎のラインに沿ってへこんでいく辺りに指先を近づける。
暖めようと思ったのかもしれない。
触れて、確認して。
冷えてしまっているのなら、この手の熱を分けてやりたいと。
だけど手は、触れる寸前でその動きを止める。
2センチメートルの距離を隔てても、添えた指先に僅かな熱を感じる気がした。それは多分、気のせいなのだろうけど、不意に以前言われた言葉を思い出す。
先輩って手ぇ冷たいよね
寒そうだから俺が暖めてやる、なんてバカな理由をつけて暫く手を繋がれていたけれど。
あーはいはい、なんて面倒臭そうに言いながらも、藤代の手は本当に暖かくて、その温度差に少し驚いた。
冷たいと意識しない自分の手が熱く感じる程になり、離れた途端に、前はそう感じなかった冷たい空気に晒されてどんどん冷えていくのだ。
だから今、こうして暖めようと伸ばした自分の手は、その相手よりもきっと冷たい。
与えたい想いとは裏腹に、節理にしたがって熱を奪うだろう。
密かに息をついて、触れられないまま手を引いた。
手を繋いだり抱きついたり、隙を見てはキスをしたり。
藤代が軽々と越えてくる距離を、ただ体温の差が感じられるだけで自分は越えられない。
もどかしく思う自分と、躊躇い無く飛び込んでくる後輩との間の2センチメートル。
隔たるその距離には何があるのだろう。
それを越えるのに足りないのは、なんだろう。
視線を滑らせて時計を見る。
相変わらず響く秒針と、十時を示す二本の針。
越えられない距離はそのままに、だけど今は出来るだけ近づいた場所に居たくて。
頬杖をついた左手を倒すと、三上はそっと顔を伏せた。
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リリカル三上君。
据え膳を食わずに乙女ぶる三上。
赤ペン先生三上。
このあと消灯十一時に見回りに来た寮母さんにですね、二人眠り込むところを発見されるのですよ!うふふ(キモー)
200300506 板村あみの