神判




 綾香が指図したマンションの内装はこの上なく贅沢で、虚飾に満ちてセットの様に作り物めいている。計算されつくした間接照明も舞台効果のようで、生活感の欠片も無い冷たい空間は、和賀の人生を演じきるにはとても都合が良かった。
 和賀は二人の刑事と対峙する。とても歓迎は出来ない、予期せぬ登場人物。台本は白紙。結末も未定。それでも、ここで失敗は出来ない。これまでのどの瞬間よりも完璧に演じきる必要がある。

 今西の眼差しは、完全に和賀を捕らえていた。「ピアニストの」でも「田所の気に入りの」でも無い、「人殺しの和賀」として。よく訓練された獰猛な狩猟犬、ふと場違いに思いついて咽喉の奥でひっそりと笑う。追い詰められた恐怖と、何もかもを投げ出して告白したい衝動をそれと一緒に飲み下して、和賀は必死に計算を巡らした。どれが正解だ、どう演じればいい?
 玲子との事は隠さない。二人の刑事がここに辿り着いたということは、関川が俺の名前を出したからだ。おそらく、証拠となる服の破片を見られている。拙い事に「和賀英良」の記名が入った、まっさらな五線譜と共に。
 真実の中に巧みに嘘を混ぜて、和賀は玲子との関係を告白する。楽譜の処分を頼んでいたのは確かに和賀英良だ。過去に男女の関係もあり、関川とはその事もあって関係は芳しくない。でも勘ぐられているだけで、今はもう切れている。ただ、電話でお腹の子供の相談を受けていただけ。
 そう、ただそれだけの真実。
 今西の横で吉村と名乗った若い刑事が、今にも噛み付きそうな眼差しで和賀を見つめる。綻びを逃すまいと握るペンが微かに震えているのが見えた。
 
 下手な嘘で言質を取られたら、お終い。多分そこまで掴まれている。

 どうする、どう逃げ切る。
 この二十数年欺いてきた宿命に、ここまで来て捕まってしまうのか。

 宿命、と胸中で呟いた一瞬に、あさみのしっとりと冷たい手の感触が蘇る。大丈夫、と言って和賀を抱いた腕。
 始まりの夜には、真っ赤な血を流していた手。冷たくて凍えそうだと、和賀を求めた、手。

 ああ、あの手が俺を指したら、演じた嘘も何もかもが意味を失う…!

 冷水を浴びせられた様に血の気が引いた。
 殺せないと悟った瞬間に、和賀の命運はあさみの手に委ねられた。あの崖の間際のように危うい場所で、今にも落ちそうになりながら、引き合って溶け合おうとする手を振り払う事が出来なかった。忘れてしまえと、もう会うことは無いと告げながら、それでも。

 生まれ直せばいい、と抱き寄せた女が、今は和賀の生殺与奪の権を握る。

 ふ、と胸の一片が軽くなる。余りの身勝手さに腹の底で嗤う。だけどあさみはだいじょうぶ、と言って、和賀と共に泣いたのだ。
 
 鋭く見据える今西の目が、一際重く和賀を射抜いた。最後に一つだけ、と前置きして、ゆっくりと問いかける。

「和賀さん、あなたは一月三日の夜、どちらにいらっしゃいましたか…?」

 始まりの夜に出会ってしまった事さえも宿命だというのなら…。

「ここに…居ました。朝まで」
「お一人でしたか?」
「…いいえ」

 この身を投げ出して、全てを委ねてしまえばいい。

「いいえ。女性と居ました」
「……それは…」

 それは誰ですか。
 あなたを審判するのは誰ですか―

「成瀬…あさみです……」




 



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2007年のイベントで無料配布した砂の器SS続き。

20070910//小絲