the perfect world


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≫≫the perfect world

2008/08/15 発行
A5/24p ¥400

藤三社会人捏造(自分最終回)。お別れの最後。


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 風がよく通るせいで、熱帯夜と予報された八月の夜は思ったよりも過ごしやすかった。網戸一枚に開け放ったサッシから流れ込む風にはほんのりと緑の香りがし、今はもう耳に慣れ、意識もしなくなった虫や蛙の声を運んでくる。
 三上の居る奥座敷は裏廊下に囲われた西の角にある。すぐ隣の仏間と居間への襖は明け放たれており、今はそのどちらもが暗い。日付も変わろうかという時刻、家人は皆寝静まっている。
 ふと人の気配を感じた気がして顔を上げると、ノートの白が照り返すライトの光に慣れた眼は、すぐに周辺の闇に順応しない。何の物音もしない周辺に向けて何度か眼を瞬き、背筋を反らして畳に手をつく。ちょうど見上げる天井に、薄ぼんやりと梁の木目が浮かび上がったところで欠伸がひとつ込み上げた。いくら過ごしやすいといっても、汗ひとつかかないという訳にはいかない。軽く汗ばむ胸元の合わせに手を差し入れると、熱をもった肌に冷たい指が心地よかった。
 そろそろ寝ようか。朝早くに起きて進めた方が効率が良いというし。まだ小さな子供だったころ、夏休みの度に言われていた「早起きをする理由」を思い出して一人笑う。身体を起こして文机のノートを閉じ、ライトを消して立ち上がろうとしたところで声がした。
「……さん、三上さん」

 真っ暗闇の室内から見た網戸越しの庭に、月影が濃い。そのせいで、呼んだ人影は黒く翳って表情も見えなかった。

「誰」

 手をついた文机が軋む。ずっと座っていたせいで痺れた足を摺る様にして廊下に出ると、ほんのりと笑う気配がする。
 誰かなんて、声を聞いただけで判るのだ。

「俺です、開けてください」

 黙ってサッシに手をかける。埃っぽいそれは風化した木製の桟に引っかかって、カタカタと鳴るばかりでなめらかに動かない。
 月明かりに薄ぼんやりと輪郭の浮かぶ後輩の姿は、化繊のネット越しにどこかふわふわとしていた。あけた途端に消えてしまうのではと、そんな事を考えるのは、覚醒していると思い込んでいるだけで本当は大分眠いのかも知れない。こんな時間になんだと、言いながらやっとの事で隙間を開けると、上がり口の石に靴を脱ぎ落とした藤代がすり抜ける様に入ってきた。

「ああ、よかった。まだ起きてて」
「寝るところだったよ。何?」

 真っ暗な中座敷へと踏み込む藤代の足には迷いがない。差し込む月影を逃れて暗闇へ吸い込まれる裸足のそれが、一瞬酷く青白く見えたので、今度こそ本当に夢の様だと思う。

「お別れを言いに来たんです」

 天井から下がる照明を探るように手を伸ばしたところで、闇の中から零れる声に戸惑う。なに?ともう一度。問いかけようとすると、明かりはいらないとでも言いそうな手が、伸ばした腕に絡んで引き寄せた。

「俺、もう帰らなくちゃいけない」
「…来たばっかりだろ…」

 そうじゃないんです。
 すぐ目前で呟くような藤代の声は、夢よりも確かだ。ぎゅっと握りしめられた手を握り返すと、ようやく闇に慣れた目が捉える表情は薄く笑っている。
 なんだ冗談かと、笑って吐息したいのに、その表情とは裏腹にひたすら握りしめられる手が硬く、熱い。震えさえ感じるような錯覚に三度めの問いかけも飲み込まれて、薄青の中眼を凝らすと、再び口を開いた藤代の咽がかすかに動いた。

「会いに来たんだ」
「…どこに帰るんだ?」
「…最後に会いに来たんです」
「最後なんて…」

 そんな簡単に来るはず無い。

 大げさな物言いを笑ってやるつもりだったのに、言いかけた唇を塞がれてしまったから、それは叶わない。


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サンプルは(うっすら)パラレルの短編より。
本編は社会人捏造(三上会社員、藤代プロ選手)での本気別れ話です。
三上嫁とか出てきて、もう自分でも藤三なのか何なのか…(呆然)