奈落の戀


奈落の戀


≫≫奈落の戀

2007/08/16 発行
A5/24p ¥400

藤三社会人捏造、三上が9年目の失恋。
ほか、うっすらラブラブ短編も。



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 四方で泣き叫ぶ蝉の声と、校舎の遠い喧騒が、うとうとと半ば眠りに落ちた耳にはさらに遠く聞こえた。
 部室の中にいても、連日の猛暑に熱せられた空気は容赦無い。うつぶせた長机に汗ばんだ皮膚が吸いつくようで、不愉快ながらも身体を起こす事が出来ないでいると、カタンと、至近で椅子の鳴る音がした。

閉じた瞼に影が差すのを漢字で、ふと眼を覚ます。まるで真綿のように柔らかなしぐさで、誰かの指先が額に掛かる前髪に触れ、離れるところだった。

「だれ…」

 あくび交じりに声に出し、ゆっくりと顔を上げる。ガタっと椅子にぶつかる音がしてから、吐息のように小さな声。

「先輩…」

 赤くうつ伏せていた痕の残った腕を頭上に引き上げ伸びをしながら、声の主を見上げる。

「何だよ…」
「や、寝てるかと思って…」
「…寝てたよ。何?」

 藤代は胸元に手をあてたまま、何でも無いと首を小刻みに振った。どうせ何かいたずらでもしようとしてたんだろ、と噛みつくのもだるく、窓の外に視線をやる。突き刺さる太陽の光がグラウンドや方々の緑を霞ませるほどに輝いていた。
 部室棟の窓からは、正門より寮に近い北門への道が見える。生い茂る緑の向こうに、ちらほらと下校する生徒の姿が見えた。
 つ、とこめかみに汗が伝って、手の甲で拭う。相変わらず突っ立ったままの藤代の足元には、スポーツバッグがうずくまっていた。
 バッグを持って来てるって事は、授業は終わったのか。

「先輩早いね。サボった?」
「いいえ、体調不良のため午後休を頂きましたが何か?」
「はぁ…それは失礼…」

 午後の授業は二つ、サボったと言われればその通り、自主的に休講した。

 梅雨も明け、気が狂いそうな暑さの中受験勉強をしなくてはならない身としては、優先順位を考え、昼よりはまし程度ではあるが涼しい夜を机に向かう時間に当てたい。
 藤代はようやく笑みを浮かべると、斜め向かいの椅子を引いて腰を下ろし鞄を机に投げ出す。中からペットボトルを取り出し、半分も無かった中身を飲み干す勢いで傾けた。あぁ、そう言えば喉が乾いた。

「俺のはねぇの?」

 少し仰向いたまま視線を寄こす。ボトルを持つ手の人差し指を動かし、これ?としぐさで問い返す。
 そうだよ、とぞんざいにうなずくと、空になったボトルをコン、と机に置いて口元をぬぐった。

「飲んじゃった」

 ああ、そう。ないのね。

 何か買ってこようとポケットを探る。感触で小銭を確かめていると。空のペットボトルで妙なリズムを演奏しながら藤代が立ち上がる。

「タクは進学なんだって。」

 相変わらず順序立てた話が出来ない。お前のその国語力じゃ進学は無理だろ、と心で呟きながら立ち上がり。ふーんと相槌を打ってやった。俺からすれば、いまさら何で進路の話を持ち出すのか、ピンとこない。
 …そう言えば、聞いてきたこと無かったな。

 進学は中学を卒業する時点から決めていた。高校三年間全力でボールを蹴り、その後は大学進学。もちろん、サッカーを基準にするのではない。
 藤代の場合は、こいつがこの先どうするかは自明すぎて、たぶん誰も本人の前で話題にしなかったんだろう。

 校舎への渡り廊下途中のロビーに自動販売機はある。
 部室を出ようと辿り着いた扉に手をかけると、そのすぐ横に大口を開けている塗装のはがれたゴミ箱がガコンと響く音を立てた。

「先輩は?」

 振り返る。
 たった今ペットボトルを投げ入れた手のひらをグッと結ぶと勢いよく振り下ろす。なんとなくその仕草が目に焼き付いて、瞬きをしてから視線を上げると。藤代は一瞬投げてきた硬い視線を逸らした。

 俺?俺が何?

「何が?」
「だからさ…どうするの?」
「……」
「続けるの?」

 サッカーを?

 例えば、寮の自室に転がりこんで纏わりついてきた時や、夜中に上がった屋上で話をした時。談話室で会った時や、今のように部室で二人になったとき。
 今のチームがどうとか、今の自分がどうとか、今の気持がどうとか。現在の話はしても、未来の話はしなかった。
 少なくとも俺は、意識的に。
 別に不安から口に出せなかった訳じゃない。不安に思うほどの何もないからしなかった。

「終わりってわけじゃねぇだろ」

 いつもの通りの笑みを浮かべて投げ返した言葉で、藤代が浮かべた表情が不思議だった。たとえこれまでどんなかかわりがあろうと、道が違おうと、もう二度と触れ合うことがなかろうと。
 しぬわけじゃない、終わりになる事なんてそうそう無いんだから。

 何かを言いかけて薄く開いた唇が、もう一度動くのを待たずに、振り返り扉を開ける。一歩踏み出した途端に隣の部室から笑い声が聞こえた。右手から階段を上がってくる数人の中に渋沢達の顔がある。
 背後に閉じかけた扉から。さっき眼を覚ましたばかりの時に聞いたような、溜息のような声が耳に忍び込んだ。

「一緒に行けないの」



立ち止まらないお前と、俺はどこに行ける?




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三上先輩が大人になってから決定的に振られるお話。